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▼何のために読書するのか?

何のために読書するのか?/
ある作家が「人と同じものを書かないようにするために読書する」ということを書いていた。当時は「すごいなぁ〜」と思いながらも、もう20〜30年も前のことなので誰だったかも覚えていない。


楽しみ、知識習得、気づきを得るため、救いを求めて・・
などなどたくさんあると思う。

自分も年代、置かれた環境によって異なる。

ここ暫くは、「経営者として必要な知識を得たい」だったり「成長のための気づきを得たい」だったのが、ここへ来て「自分の考えを言葉にしたい」に変わってきた。

本当だったら、自分の体験や思考を通して、気づいたことやコンセプトを自分の言葉で表現できればよいのだが、どうもそこまでは至っていない。
そこで、他人の表現を借りて自分の考えを確認する、そんなところだ。

「これこれ!俺これが言いたかったんだ」みたいな。

最近、アルフレッド・アドラーに関する本を何冊か読んでいる。
その中で、ある文章がピタッときた。

抜粋でご紹介してみよう。

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第4章 三つの人生問題

社会的関心ー職業ー恋愛と結婚

◯社会的関心
 人間を観察するに際して、個人心理学は、人間お孤立したものとは見ないで、いつも世界と関連させて見ている。もっぱら環境に対する彼の態度の中に、ひとは自己をあらわすからであす。われわれは、ひとが三つの人生の大問題を解決するその仕方から、最もよくその人を理解することとができる。社会的関心、職業および恋愛と結婚は、誰もが答えねばならない三つの大問題であり、われわれがめいめいに解決しなければならない問題である。
 ひとは誰でも、共同体から、いや共同体の拘束力から離れることはできない。人間であることは人間同士であることを意味する。ひとりぼっちの人間は自然のなすがままである。このことを人間たちは知っていた。ひとりぼっちでは人間は自然の力に従属することになるから、人間は家族や氏族という群をつくっていたのである。彼らは力をあわせて危険と戦ったし、いっしょに神を礼拝した。
 共同は男性からも女性からも要求された。法律は共同体にとって有害なふるまいをする人びとを罰するためにつくられた。すべての人は共同体に適応し、そこに自分の仕事を見つけなければならなかった。しかもそのことは実に今日まで相変わらずである。言語さえ、共同体生活の中で、相互理解の必要から発達した。(一事が万事で)、すべての機能は共同体に関連して発達し、すべての生活行動は協同に向かって進んでいる。
 この協同は誕生とともにはじまる。まず最初に、赤ん坊の「自我」は、母親という「他者」にぶつかる。子供が母親の胸から乳を飲むとき、アドラーは、この哺乳を、サディスティックな行為としてではなく、最初の協同とみなしている。母親の膨らんだ胸は子どもと妥協するのである。母親がこどもに栄養と力を与えるのは神聖な自然の行為である。母親と子どもの協同によってのみ子どもは生きて行けるのである。
 子どもの社会的関心をめざめさせることや、それを発達させたり抑圧したりすることは、母親にもってこいの仕事である。彼女が子どもに及ぼす影響と、子どもを育てる方法とは、子どもの後年の生活にとって最高に重要である。母親は子どもに協同することを教える。彼女は、子どもの関心を、父親へ、兄弟姉妹へ、国家へ、そして人類一般へ拡げなければならない。しかし、母親はこの仕事の広がりを意識していないことが大変多い。子どもがまだごく幼いときには、母親は子どもに他人に対する関心をよびおこすことを考えていない。だから、子どもは、この点では人生に対する準備が不十分なままで成長する。
 そこで、この不十分を補充し、他人に対する子どもの関心をめざめさせることは、学校に仕事になる。
 なかんずく、子どもが人生における仕事を勇敢にこなしてゆくように、子どもに勇気を吹き込むことは重要である。同士愛の精神と勇気は緊密につながっている。なんとなれば、自分は他の人間仲間と結びついていることを感じる、そういう人のみが自分の問題を勇敢に克服するだろうから・・・。他人を敵とみなす人々は、臆病にも退却するか、あるいは、本来の勇敢な行為ではない、敵意ある行為をするかのいずれかだろう。
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『アドラー心理学入門』(H・オグラー著、西川好夫訳)1977年5月 清水光文堂刊 pp.133-135
"ALFRED ADLER, THE MAN AND HIS WORK"
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