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▼今月展のみどころ〈2〉

今月展のみどころ〈2〉/
今日ご紹介する今月展のみどころは〈天童広重〉です。
これは天童織田藩の依頼によって広重が描いた肉筆画です。

幕末、禄高二万石の小藩である天童藩は苦しい経済状態にありました。
この財政難を乗り切るため、藩は領内外の豪商、豪農などへ十年年賦の御用金を課しその返礼として、すでに江戸で人気絵師であった広重の肉筆画を下賜しました。
作品総数は明らかではなく、二百幅以上あったのではないかと推測されます。作品はすべて二幅か三幅の連幅形式で、絹本に淡い彩色、落款は「立斎」で統一されています。
現在では天童のために描いた作品ということで、この作品群を〈天童広重〉〈天童もの〉などと総称しています。(画像の右の2組の掛軸が〈天童広重〉)

では、天童藩から広重に依頼されるのには、どういった経緯があったのでしょうか。

ひとつは天童藩医の田野文仲との親交説があげられます。
上の画像の左端の肖像画が田野文仲利和像(天童市美術館蔵)です。
文仲は藩医の子として江戸に生まれ、嘉永二年(一八四九)に羽州天童藩へ移住しました。この作品は文仲が天童へ移る年の春に描かれていることが軸の書付からわかります。経緯や内容は不明なものの、広重とは親しい間柄にあったとみられます。

もうひとつが天童藩士と狂歌を通じた交遊説です。
広重は「東海堂歌重」という名で狂歌を詠み、狂歌本の挿絵も数多く手がけています。
また狂歌は天童でも盛んで、天童歌垣(歌垣=判者)を称した吉田専左衛門、同じく歌垣の称をもつ木村宮之助など地域の狂歌界を代表する人々のもとに何十人という弟子がつき、一大勢力となりました。江戸詰の天童藩士たちと広重とは同じ連で狂歌をたしなんでおり、その中で肉筆画制作が依頼されたのではないかと考えられています。


狂歌本の中には「東海堂歌重」の名前が見えます。


今回はめずらしい狂歌本の下絵も展示しています。
中には天童藩士の文歌堂真名富(吉田専左衛門)の姿も描かれています。


この機会にぜひご覧ください!


開館15周年記念展
【山形・天童】×【広重・浮世絵】
10月29日(月)まで開催中!(火曜日休館)
2012/10/07 14:54 (C) 広重美術館
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