ヤマガタンver9 > 館長裏日誌 令和7年12月17日付け

Powered by samidare

▼館長裏日誌 令和7年12月17日付け

■ 山形の立ち位置の話
 「山形県は、東京から300kmほどの距離にも関わらず、別世界のような静けさを保つ場所であり、日本の旅行者もまだ多くが訪れていない聖なる山々、静寂に包まれる寺社」云々とのことではありますが、要するに稀にみる寂れた場所ということで、まあ、それでいいんです。山形はまだまだ「奥の細道」状態ということで。
 「奥の細道」で芭蕉が「侘び・寂び」から「軽み」に達したように、山形の侘しく寂れた風情からの「軽み」を感じ取ると言いますか。まあ、意外に軽いところもありますよ、山形は。
 「2026年に行くべき世界の旅行先25選」が発表された翌日となる10月22日に、新たに就任された首相は、「世界の真ん中で咲き誇る日本外交を取り戻すために、信頼関係を作り、日本が何をやりたい国なのか、しっかり発信したい」と述べていましたが、これが山形ならば、世界の辺境あたりで咲き誇れれば、まずはよしと、何をやりたいかについては、まあ、なるようになる、と言いますか、いや、不易流行ということでどうでしょう。
 さて、「つるおか観光ナビ」(鶴岡ツーリズムビューロー)に載っていた「出羽三山の山伏が語る!知られざる山伏の秘密」というインタビュー記事には、「出羽三山は江戸時代、西の伊勢参り、東の奥参り」といわれるほど人気だった、とあります。
 「出羽三山が江戸のある武蔵を含む東国三十三カ国総鎮守とされたこともあったのでしょうが、月山のご祭神がツクヨミノミコトで、伊勢神宮のご祭神であるアマテラスオオミカミの弟にあたるため、太陽の神である伊勢を詣でるのなら、月の神様も詣でないと、一方しか参らいない片参りになると、当時のガイドブックに書かれたこともあり、大人気になったようです。」とあり、山形も時には日の当たることもあったということです。英語で言うなら「Every dog has its day(どんな犬にも最上の日がある)」ということかしらん。以上をまとめると「YAMAGATA=Best of the World 2026=Every dog has its day」ということで、う〜む、自虐が過ぎるでしょうか、すみません。

■ 神秘的なアウトドア体験の話
 続いて「通年で、古くからの伝統と神秘的なアウトドア体験ができる点」について。これは具体的には、出羽三山における山伏修行がその代表かと思われます。2泊3日の山伏修行体験塾(羽黒観光協会主催)や2泊3日×2回で行われる錬成修行道場(出羽三山神社主催)などの修行体験もあります。本格的に修行したい方は6泊7日で行われる「秋の峰入り」を。さらに「冬の峰」という9月24日から大晦日まで100日間に及ぶ籠り行もあるそうです。ただしこれは地元集落の山伏から二人だけ選ばれる行です。修行中の食事は精進料理となり、基本的には付近の山の幸とのこと。詳しくは羽黒観光協会のホームページを。
 また、前出の山伏の方へのインタビューで「観光客は、山伏に話かけてもいいのでしょうか。」という質問があり、これに対して「本来の修行中であればよろしくないのですが、本格的な修行を行っている時は観光客の方とお会いするような場所にはいません。また、人に説くことも修行のひとつですから、話しかけてください。ただ、口下手な人が多いですけどね。」とありました。やはり修行中の方をお見かけすることはまずないのですが、「山伏兼ガイド」という方がいて、普段は学校の先生をしているという方などは、いやいやどうして口達者でした。
 この修行体験者というのは、私の身近にも結構いまして、かつての職場の上司も修行経験者でしたし、役行者に関心を寄せている山寺芭蕉記念館のA学芸員もこの夏、修行に参加していました。
 修行できなくとも、出羽三山神社への石段を登るとき、「おしめ」をするだけでも身も引き締まり、良い参詣になるとのこと。いや、その失禁対策ではなく、参拝者が首から下げて身につける白い紙製の飾りを「お注連」(おしめ)と言っていまして、これは結界を創り、山中の魔が入らないようにした裃を簡略化したものです。石段登口の羽黒随神門の社務所あるいは合祀神社の社務所で入手できます。お注連は1本1,000円。加えて、願い事によって色を選ぶ「縁紐(えにしひも)」が1本200円です。お注連は出羽三山独特のもので、記念として持ち帰っていただいている、とのことです。

■ 法螺貝の話
 以前、自宅を建てる時、その地鎮祭を山伏にお願いしたことがあります。建築を請け負った工務店からの紹介で、祭壇には大根などの根菜やスルメなどを捧げ、呪文を唱えながら包丁を振り回すというものでしたが、祈祷の前後に法螺貝を鳴らすのですが、何事もない住宅地の真ん中で法螺貝が鳴り響くというのは、なんともシュールではありました。
 前出の山伏インタビューでは法螺貝について「法螺貝はもともと、合図として使われていました。山伏たちは山の中でバラバラに生活していますから、集まるとき、危険が迫っているときなど、連絡手段として使っていました。それが時代を経て、お祓いであったり、魔よけに使われたりするようになっている。」とのこと。
 ちなみに「法螺貝を吹くのは難しいですか。」という問いには、「簡単には吹けませんね。管楽器を吹ける人は上達も早いですが、吹き方は全然違っています。楽器は頬を膨らせず、唇の正面からに吹きますが、法螺貝は頬を膨らませて横から吹きます。私は管楽器をやっていたので2、3か月で吹けるようになりましたが、半年、1年かかる人もいますよ。」ということでした。
 確かに、法螺貝には上手い下手があって、上手いものは「プォォォ〜、ブゥゥゥ〜」とヌケのよい響きとなるのですが、下手だと「ブブブ、ビビビ」というブーイングのようなものになります。かつて、あの忌野清志郎さんもどういうわけかことあるごとに法螺貝を吹いていた時期がありましたが、やはり難しく、出羽三山で鳴り響く音色のようにはなりませんでした。
 この法螺貝や角笛を先祖とする楽器がホルンです。現在のホルンはバルブで音程を変えますが、古典派以前、つまりベートーヴェンの時代以前はナチュナルホルンと呼ばれるバルブなしの単管でした。曲の調性によって管の長さを変え、それにはクルークと呼ばれる替え管を用います。楽譜のホルンのパートには、どの調性の管を使うか書いてあるそうです。
 また、ナチュナルホルンの音階は各調の自然倍音に限られ、つまりはド・ミ・ソだけで、その間の音程は吹き出し部分のベルに手をつっこんで調整します。しかし、その音はくぐもってしまうため、モーツァルトやハイドンはド・ミ・ソ以外の音はあまり使用しない曲を作っていたそうです。一方、ベートーヴェンはホルンに詳しく、交響曲を始めとしかなり効果的にホルンを用いています。これはまず交響曲第5番や第6番での独奏パートを思い浮かべることができると思いますが、第3番では同一楽章内の転調部分で管を替える小節があり、奏者によっては管を替えるかわりに、あらかじめ調性の違う2台のホルンを用意することもあります。
 山形交響楽団では古典時代の楽曲に積極的にナチュナルホルンを用いていたことがあり、年間通してベートーヴェンの全交響曲を演奏したときでは、実際、ステージに2台ずつホルンを用意していたこともありました。とにかくナチュナルホルンの音程は不安定で、聴く方もスリリングというか相当の緊張感をもって聴くこととなり、シーズンシートで全ての演奏を聞いたのですが、どうしてもどこかでやばい音が出てしまうのですが、それは指揮者も聴衆も納得済みでして、そのチャレンジ精神に惜しみない拍手を送るわけではあります。
 ちなみに「ホラを吹く」という言葉がありますが、元々は仏教用語で「仏の説法(教え)」を指し、法螺貝の大きな音から転じて、偉そうに立派なことを言う、またはその裏に実行が伴わない様子を表すようになりました。それが嘘をつく、大げさなことを言うといった意味で使われています。
 まあ、法螺貝にせよホラ吹きにせよ、上手く吹くには、それなりの技量が必要かと。

■ 鍋奉行の話
 出羽三山神社の五重塔改修工事に、その奉行として志村と下の2名が任じられますが、奉行とは、「上の命を奉じて物事を行うことで、特に武家時代に、上の命を受けて事務を担任した一部局の長官」とのことです。
 奉行と言うと、今の季節は「鍋奉行」というのが登場するわけですが、大抵は疎んじられるのですが、逆に誰かに担ってほしいのがすき焼きでして、最初の入りも難しければ、途中の具材投入のタイミングとか、終盤は煮詰まらないよう見張るとか、なかなか気の抜けないのがすき焼きでして、その一連の状況を仕切ってくれる人ならばありがたいわけです。
 以前は、職場などですき焼きに行く機会があり、それは立派な店ではなく、肉屋の2階にある広間などで、すき焼き以外の料理はなく、せいぜいミカン1個が出てくるくらいなのですが、肉のおかわりなどしながらもリーズナブルな料金でいただけるものではありました。しかしそのうち、食欲も満たされ酔いも回ると、うっかり煮詰まってしまうこともしばしばで。
 さて、その作り方ですが、まずは鍋に牛脂を引き、牛肉を投入するのですが、さっと火を通し、割り下をかけ、溶き卵でいただく、これがこのあたりでは一般的かと思いますが、関西風となると牛肉を先に焼いてから砂糖と醤油を直接振りかけて肉の旨味と香ばしさを引き出すということで、まずここで齟齬が生じるわけです。
 お店でいただくときに、店員さんが最初、焼いてくれることがあるのですが、一度だけこれとは全く違う焼き方のことがありました。それは牛脂をひいたあとまずネギを焼き始めるのです。ネギを時々返しながら香ばしくなってきたところで牛肉を焼き、割り下を入れる、というもので、以来この香ばしさがよくて、自宅ではこの順ですき焼きをしています。
 あとは白菜、しいたけ、春菊、しらたき、焼豆腐、その他をどの順に投入し、どう並べ、その火の通り具合はどうするか、自宅ならいざ知らす、職場とかあるいはおもてなしとかなると何かと難しく、そんなときにすき焼き奉行がいてくれたらと思う次第ではあります。すき焼きにおける忖度というかコンプライアンスはどうあるべきかとか、すき焼きというゼロサム条件下での各人のウィンウィンをいかに形成していくかとか、すき焼きの「正義」とはなにかとか、考えればきりがなく、それは度が過ぎるとまた、モラハラというか鍋ハラということにもなってしまうわけで。ただ、コロナ以降は職場で鍋を囲むようなことは少なくなり、一方では、一人用の鍋が普通になり、あらかじめ具材全てが鍋に入っているすき煮になりつつありますが、こうなるともう鍋奉行のレゾンデートルはなくなってしまうわけです。しかしながら、AIさんに「すき焼きの正義」について尋ねたところ、「グルメサイトで探すことができる」との結論で、まだまだ鍋奉行の領域というか場の力学というレベルには達していないようです。
 ところで、山形でのすき焼きと言えば、山形牛や米沢牛が一般的と思われるかもしれませんが、いくら地元でもそうそうはいただけるものではなく、実際、すき焼き店で食べれば、同じすき焼きでも米沢牛は倍の値段ぐらいになります。ただ、山形牛や米沢牛を扱っている肉屋さんには300gで1,000円ぐらい国産牛肉も並んでいて、家庭でのすき煮程度であればこれで十分かと。ただ不思議なもので、高い肉ほど量を食べることはできず、つまりは霜降り肉のように脂がたっぷりと入った肉は、沢山は食べられないのです。歳をとるとなおさらで、山形牛なら100gで1,000円も出せば結構いい肉が買え、同じ1,000円ならこちらで十分かと。最近は霜降りより赤身とかが好まれているようですが、すき焼きに限っていえば、あれは脂の旨味ではないかと。
 あ〜、思わず「すき焼き談義」となってしまいましたが、ここで最後に、五重塔改修の担当奉行となった下次右衛門と志村伊豆守光安の話のご紹介でも。以下、片桐繁雄さんが執筆された「歴史館だより」2010年の記事にある「最上家をめぐる人々♯27〈下次右衛門/しもじうえもん〉」 からの抜粋です。

 人間を人間として大切にする……。最上義光は、その点において驚くべき思想の持ち主であった。そもそも、罪なき民衆が命を失う戦いを好まなかった。戦っても相手を殲滅するやりかたを彼はしなかった。上杉の降将、下次右衛門も義光によって見出され、力量を発揮した人物だ。そして、この人物を語るには、志村伊豆守光安との友情をも語らねばなるまい。
 慶長5年(1600)9月、関ヶ原を主戦場とする「天下分け目の戦い」が起こった。義光は奥羽諸大名を率いての上杉攻撃を命じられ、準備態勢をととのえているところへ、上杉は先制攻撃をかけてきた。総大将は米沢城主直江山城守兼続である。上杉方は庄内から進出し最上方の主な出城ほとんどを占領した。このとき、谷地城を占拠したのは下次右衛門であった。下はここで兵を休めつつ、総大将兼続から山形城攻撃の命令が出るのを待っていた。ところが、兼続が山形城にかかる前に片付けようとした長谷堂城は、志村光安らの激しい抗戦で落城せず、半月近くも日が過ぎていた。
 9月末、関ヶ原で石田方敗軍の報せが着くと、兼続は撤退を開始し、最上軍の猛追撃を振りきって米沢へ帰還した。だが、谷地城で待っていた下のところへは何の連絡もしなかった。できなかったというほうが正確かもしれない。下の軍勢は、状況を知らされずに、最上領内に置き去りにされたのである。谷地城は、最上軍に幾重にも包囲された。
 下は「城を出て戦い、討ち死にするこそ武人の大義」と覚悟を決める。
 一方、義光は志村伊豆守を呼んで命じた。 
「次右衛門は、小身ながら武勇の誉れ高き者、説得して降参させよ。味方にして、庄内攻めの案内者にせよ」
 伊豆守は単身、谷地城に入って、次右衛門を説得する。
「直江殿はすでに会津へ帰国なされた。義をつらぬきこの城で戦って死すことと、妻子ある幾百の兵の命と、いずれか重き。城を開いて降伏し、義光公に仕えられよ」
 熱誠こめた勧告に心を動かし、次右衛門は義光の軍門に下った。おそらく武人同士の厳しい応酬がなされたはずだ。この経過で強い信頼が芽生えたのであろう。下軍はほどなく庄内攻めの先鋒となって尾浦城を落とし、翌年四月、酒田城の戦いにも功名をあらわす。 
 戦いが終わってから、義光は次右衛門に田川郡尾浦(大山)城1万2千石を与え、対馬守を称させた。上杉家ではわずか400石だったのが一城の主となり、80石だった一門の者たちもみな千石の領地を拝領したという。異例の加増であった。これ以後、下対馬と志村伊豆は、たずさえあって庄内発展に力を尽くすことになる。
 庄内も由利も新たな領地である。戦いに倦み疲れた民心を安定させ、生産を高めねばならぬ。製塩、漁業など山形では今までなかった新しい産業もある。港を整備して海上の通運や交易も考えねばならぬ。さまざまな課題を解決し、領国の安定と発展を図らねばならなかった。その実務者として、川北・酒田と遊佐には志村伊豆、川南の田川には下対馬が登用されたのである。
 神仏に関わる事業も義光の意を受けてなし、それらのうち最大の事業は羽黒山五重塔改修工事だったろう。義光はこの工事の奉行として、志村・下を任じた。今、鬱蒼たる杉林の中に立つ五重塔を見上げる善男善女のうち、どれほどの人が戦いで相対した2人の武人に思いを馳せるだろうか。

2022/12/17 17:15 (C) 最上義光歴史館
(C) Stepup Communications Co.,LTD. All Rights Reserved Powered by samidare. System:enterpriz [network media]
ページTOPへ戻る